西陣織の歴史

西陣織とは

「正装なら、染の着物に織の帯」という言葉をご存知でしょうか?染の着物の代表が友禅染、織りの帯としてもっとも品格の高いのが西陣織の帯です。

西陣織とは、京都の西陣で生産される先染めの紋織物。多品種少量生産が特徴的です。
先染めの紋織物とは、染織した糸をつかって模様を織り出す織物。友禅のように織ってから染めるのではなく、先に染められた糸を複雑に織りあげて模様をつくるため、完成までには多くの工程が必要となり、手間暇のかかる高級な絹織物です。

その独特な織技術は、平安朝より連綿と受け継がれてきた西陣の財産でもあり、織屋たちは創造性や表現力をさらに高めるため日々努力を重ねています。

西陣織の歴史

5~6世紀
古墳時代

[西陣織の源流]
京都・太秦に養蚕・絹織物が伝わる

大陸からの渡来人、秦氏の一族が山城の国(京都・太秦)あたりに住居を構え、養蚕・絹織物の技術を伝えたといわれています。

高松塚

645年
大化の改新

奈良~平安時代

794年
平安遷都

朝廷の命により、高級織物の生産がはじまる

朝廷は、織部司(おりべのつかさ)という織物業の役所をつくり、絹織物の技術をうけつぐ工人(たくみ)によって、綾・錦など高級織物の生産をはじめました。
しかし、平安中期になって律令制度がくずれるとともに、官営の工房はおとろえ、織手たちは自ら織物業を営むようになります。

大華文更紗

鎌倉~室町時代

1467~1478年
応仁の乱

応仁の乱、西軍本陣あとに、織手が集まって

応仁の乱が終結すると、大阪・堺に逃れていた織手たちは京都へもどり、織物業を再開。その土地が戦乱時に西軍の本陣であったことから「西陣織」という名前が生まれました。
西陣では、大舎人座(おおとねりざ)という組合が組織され、室町時代の後期には、京都の絹織物を代表する存在となっていきます。

安土・桃山時代

1590年
豊臣秀吉が天下統一

中国の明の技術が伝わり、高級な西陣織の基礎が築かれる

中国の明から伝わった技術をとりいれることで、先に染めた糸をつかって色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)という、新しい織物を発案。高級な西陣織の基礎が築かれました。

桜梅柳紅葉橋文

1600年
関ケ原の戦い

江戸時代

西陣の黄金時代をむかえる

幕府の保護のもと、高級織物の産地としてさらに発展をとげる西陣。
その繁栄ぶりは、生糸問屋、織物問屋が立ちならび、一日千両をこえる糸取引が行われていたことから「千両ヶ辻」という地名が生まれたほどです。

風神雷神

奢侈(しゃし)禁止令で痛手をうける

江戸時代の後半になると、たび重なる飢饉、奢侈禁止令(贅沢を禁止し、倹約を推奨する)の影響などから、西陣織は苦難の時代をむかえます。

1867年
大政奉還

明治時代

ジャガード織機を導入、近代化へ

東京遷都の影響もあって、西陣織は危機的な状況へ。
そこで京都府の保護育成がはかられ、西陣物産会社を設立。職工をフランス留学させて、ジャガード織(紋紙を使う紋織装置)の技術をとりいれて近代化を進めました。

大正~昭和時代

世界的な高級絹織物の産地として

洋式技術が定着、デザインも洗練されて、西陣は最新で最大の絹織物産地へ。フランス・リヨンやイタリア・ミラノをもしのぐ、世界的な高級絹織物産地として知られるようになります。

平成~令和時代

新たな可能性を追求する、西陣織

現在では、帯地やきものに限らず、ネクタイや和装小物、壁掛けなどインテリア関連へも用途は広がり、国内外からも注目される存在となりました。